yuutamakiの日記

日々の日記

12月のとある日。4日目の6.

「ハタチのわたしと」

 


昼ごはんにはジョアがでた。

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楽しみなのでおやつにしようと取っておく。20代の時は会社にヤクルトの販売員さんが毎日来ていて、よくジョアを買って飲んでいた。懐かしい。ときどき感じたくなるこの乳酸飲料の喉越し。実際リハビリ後に飲んだジョアマスカット味は20代の時より美味しかった。ヤクルトすごい。

 

午後、今後外来で調剤してもらうときに入院中の調剤情報を共有することがある、ということで書類にサインを求められた。この手術では本当にいろんな書類にサインした。

ただどれもガチガチの制度やクレームなんかに対応するものなんだろう。人との軋轢とかトラブルとか決められた新しいルールなんかが署名を増加させていく。

12月のとある日。4日目の5.

「コンビニにて」

 

一階に降りると外来の患者さんで満員状態。ぎょっとする。今日もどこかしら病んでいる人がいる。こんなにも。

 

コンビニはきらきらのクリスマスモードで、日頃行き慣れた場所だし見慣れた品物たちだけど、今欲しいものはない。けれどチョコレートを見て普通に美味しそう、と感じられたのは収穫。退院したら何を食べようか。そう、クリスマスもやってくることだし。

 

歩くたびに思うけれど、傷の痛みも少しずつ良くなっている感じ。この調子。

退院が見えたせいか、自分の中の日常の体調割合が徐々に増えつつあるのか、気分が上向きになってきたのがわかる。ぐん、ぐんと1時間おきくらいに回復している。人間てすごい。帰ったら一番に何が食べたいか、などを空想し始めやはり自分は食なのかと安堵した。

12月のとある日。4日目の4.

退院というマーカーを押されたことで、なんとなくお尻の辺りがむずむずしてきた。ここにいなくてもいい人となったことで、それは喜ばしいけど、本当に退院する日まではお世話する人リストには挙げられている。

早く退院すればいいのにねー、とか言われてないか。いや言っててもいい、聞こえなければ。いやあんなやる気のある可愛らしい看護師さんたちがそんなこと言うだろうか、いや言っててもいい、ストレス発散になるのなら。

けどもう少しです。よろしくお願いします。

 

ということで、冒険に出ることにする。私がいる階は7階だが1階にコンビニがあることは知っていて、別に行ってもいいと言われていたので運動がてら行ってみる。もちろん院内で過ごしていたパジャマ姿だけどまあ病院だしいいか。

12月のとある日。4日目の3.

「なくなったもの」

 

午前中には結果が出ると聞いていたけど、回診としてどやどやと先生たちが来た時、痛みますか、傷大丈夫ですね、のついでのように「結果オッケーです。明日退院です」と告げられた。

 

これで終わりだろうか。食べ物で気をつけることは何か、など聞きたかったけど一仕事終えたとどやどや帰っていく一行に何も言えず。食べ物などそもそも何でもいいのか?

食べたいものを食べたらいいじゃん。…そんなことないか。

 

私の中の胆嚢はなくなった。

それでもわたしは生きていて、普通に歩き飲み食べている。私の内側ではなくなったものを埋めるべく、重要な会議が開かれ、作戦が立てられているかもしれないけど、人間の道のりとしておそらくよくある例なのだと思う。きっと細胞がちれぢれになっているいろんな細胞たちの記憶と結びついて、どうすればいいのか導き出せるようになっているのだろう。ニンゲンってすごいし、こわいし、すごい。

12月のとある日。4日目の2.

「食べたい、食べたくない」

 

やや朝ご飯が待ち遠しくなっている。お通じもないのに大丈夫か、わたしの胃腸がんばれ。

ご飯に納豆が出る。この夏、生まれてこのかたほとんど食べたことがない(食べられなかった)納豆を解禁していた私はなんとなくカツをいれたくてそんなに食べたくないけど完食。牛乳がついていたので、ちょっと温度が上がるのを待ちつつ食後に飲んだ。ここでいろんな種の食にトライしておいて、壊れるなら今壊れてくれの感じで順に解禁している。

 

思えばここに来るまでの数日、むくむく怒った胆嚢のおかげで、ほとんど食欲がなかった。

紹介状を握りしめながら少しお腹すいたな、パンとかならいけるかな、と考えていたぐらいだからそこから思うといろんなおかずとご飯を欲し、口にして消化している今は前と後って感じはする。

食は大事。それが阻害されることがつらかったわたしは、改めて食が好きなのだなと思う。

12月のとある日。4日目の1.

「さびしくなんかない」

 

よく朝、夜中に一度くらい目を覚ましたけど、それからはよく眠った。次に起きたのは何かしら物音がして、だったけど6時半くらい。平常の私はもう少し早く起きていたので、元の生活に戻れるだろうかとやや不安になる。その不安を覆うような外は暗い雨模様。心なしか寒い。

 

起きて暖房を入れ、先生の突然の来訪を警戒して7時前には自分の中で起床とする。起床とは部屋の電気をつけ、顔を洗ってから鏡ですっぴんのチェックをして、ベッドの傾きを60°くらいにすること。寝る時に脱いだ靴下を履き、トイレも済ませた。

 

今日は血液検査の看護師さんの方が早い。よく見ると主任の方。にこやかに手早く終了。風呂に入っていた時に気になった両胸のパッチのようなものを「まだついてたんですね、外しますね」と言われる。ここ数日なぞにマークされていた。また一つものが減った。あとは手首に巻かれた名前とバーコードだけ。これがわたしがここにいる最後の証となった。

12月のとある日。3日目の6.

「戦力外」

先生が検診に来てくれていよいよ退院という言葉が現実的になる。忙しない病棟なら早く返してくれとなったかもだけれどありがたく快適で、自宅に帰った時の自分の不甲斐なさと戦力外ぶりを予見してやや憂鬱になった。

 

帰ってから年末まで半月くらいか。それで立て直して社会復帰できるのかな。こういう時物書きという仕事は頭と手でできるからいいよな、と改めて。ボケてなくて、小さくてもメモリできる脳の容量があって、記録する媒体があれば成立する。今は世界の端と端にいてもデータのやり取りが可能だ。平和なラインが繋がっていればだけれど。

 

この日は割と動画などを順当に閲覧していたらそろそろ消灯時間となった。個室だしそこまで厳密に守らなくていいかもしれないが、院内放送で「療養のためにもお休みください」と柔らかく諭されると生真面目に守りたくなる。自分の根っこは真面目なんだなぁと昔は嫌で仕方なかった気質を思う。